■第9回:「紙パルプ工業の偉人 大川平三郎」
小宮 英俊(紙の博物館学芸部長)
無配当の続いた不良会社であった王子製紙を立て直し、優良会社に仕上げ、ライバル会社として覇を競っていた富士製紙、樺太工業を合併して、名実共に、日本最大で有数の製紙会社「王子製紙」に発展させたのは藤原銀次郎です。
大川平三郎は日本で最初の製紙技師であり、日本の製紙産業技術は大川平三郎によって築きあげられたと言っても過言ではありません。また実業家として多くの会社の経営に携わりました。特に、富士製紙、樺太工業の社長として、明治の末から昭和の初めにかけて、王子製紙社長の藤原銀次郎と互いに覇を競ったことはよく知られています(第1図)。
私は大川平三郎の業績に敬服し、人柄に魅力を持っています。そこで、大川平三郎について記述しました。
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第1図 大川平三郎 万延元年(1860)〜明治36年(1936) 「紙の博物館蔵」 |
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第2図 大川平三郎の辞令書 「紙の博物館蔵」 |
再上段の辞令書は明治8年(1875)抄紙会社(王子製紙の前身)に絵図引工として入社したときの辞令です。月給5円。
疲弊の底にある大川家の家計を見て、勉学より、まず職業を持ち、父母の苦しみを減らしたいと考え、自分から進んで、渋沢栄一が頭取として経営している抄紙会社に入社しました。大川平三郎16才でした。月給はすべて母親に渡し、わずかな小遣いをもらっていました。
抄紙会社では紙を抄く仕事(技術)が最も大切であると考えた大川平三郎は自分から希望して、同年10月に抄紙方の助手(職工)になりました。第2図の写真二段目のものです。この決心をきっかけとして製紙技術者、大川平三郎の生涯が開かれました。
抄紙会社が雇った外人技師は建設技師チースメンと抄紙技師ボットムリの二人でした。ボットムリはパルプが専門で抄紙には明るくなかったので、中々紙を抄き出すことが出来ず困ったようです。大川平三郎は頭がよく、大変な努力家で、朝早くから、夜遅くまでよく働き、外人技師の技術をたちまちのうちに習得し、機械の運転については誰よりも精通しました。
明治10年(1877)、ボットムリが任期満了し、退社した時はすでに、立派な抄紙技術者であり、工場になくてはならない人物でした。大川平三郎18才でした。
この建白書が認められ、同年アメリカ留学を命じられました。アメリカ留学中に見聞したことを手紙で、二週間ごとに製紙会社(抄紙会社の名称が変わる)頭取の渋沢栄一や谷敬三支配人に克明に報告しています。
同年、大川平三郎は副支配人に任命されました。大川は21才の青年です。第2図の下の写真は明治15年、大川平三郎に与えられた褒賞状です。製紙会社副支配人の肩書が書かれています。
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第3図 明治17年(1884)ヨーロッパの製紙技術視察旅行の時の大川平三郎の日記 「紙の博物館蔵」 |
このニュースが日本に伝えられると、大川平三郎はヨーロッパの化学パルプの開発状況の調査を命じられ、明治17年(1884)渡欧しました。大川25才です。
第3図は大川平三郎がヨーロッパ各地の製紙工場やパルプ工場を訪問したときの日誌です。見学や調査の多忙な日々、夜、宿舎で記録した状況が偲ばれます。機械や装置の構造、働き、能力などを克明に図解しています。すばらしい観察力です。大川平三郎の理解力がたいしたものであることを示しています。
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第4図 日本初のせいろ型の木釜 明治22年(1889)遠州、気田(現静岡県春野町)に設けられた 「紙の博物館蔵」 |
木材の豊富な所で、水車動力の使える所を探した末、天竜川の上流、秋葉山のちかく気多村(現在の春野町)の土地を購入し、苦労して機械設備を運び、明治23年(1889)日本で最初の亜硫酸法による木材パルプの製造に成功しました。
木材チップを薬液で煮る木釜(蒸解釜)はアメリカのユニオンマシン会社製のもので径183cm、高さ7.3mのものでした(第4図)。鋳鉄製の円筒型でフランジをボルトで固定したせいろ型木釜です。大川平三郎が改良工夫したので大川式木釜と呼ばれます。
亜硫酸法の薬液(酸性亜硫酸カルシウム溶液)は壇状に配列された二基の木槽に石灰乳を満たし、硫黄を燃焼させて、亜硫酸ガスを作り、先ず下部の木槽に導き、石灰乳に吸収させ、続いて上部の木槽の石灰乳に導いて吸収させました。有毒な亜硫酸ガスを扱うことは明治の始め大変なことで、苦労が偲ばれます。
幸い死亡事故に至りませんでした。当時、木釜の耐酸ライニングは鉛しかありません。大川平三郎は耐酸セメントでライニングを自ら行いました。耐酸セメントによるライニングは世界でもまだわずかにしか行われていないときです。これにより安定して木釜の操業が出来るようになりました。
大川平三郎は奮闘、努力の人でした。機械が止まったと言えば真夜中でも出社して提灯を点けて機械をくぐり、水道を調べるなど正に超人的な仕事ぶりでした。大川平三郎は常に技術革新のリーダーでした。日本で最初にクラフトパルプを製造したのも大川平三郎の経営指導する樺太の富士製紙落合工場でした。
明治31年、王子製紙を去ることになりましたが、大川平三郎を慕って、職員や工員が行動を共にしています。指導者としての識見・実力・人柄がいかにすばらしいものであったかよく判ります。大川平三郎は80社以上の企業を設立し、運営しました。そのいずれにも全力で当たっております。
大川平三郎の郷里埼玉県入間郡三芳野村は土地が低く河川の氾濫による水害に度々見舞われました。大川平三郎は資金を提供して堤防を作りました。大川堤として、水害の防止に寄与しました。昭和17年、入間川水系は国が直接管理することになり、大川堤も改修工事が行われ今日に至っています。
大正13年(1924)、大川平三郎は50万円を提供して大川育英会を設立し、埼玉県出身の学生に学費を提供しています。大川育英会に世話になった人達から多くの有意の人材が輩出しています。大川育英会出身者の集まりを桜影会といいます。この桜影会に大川育英会の事業が引き継がれました。桜影会の会員は大川平三郎の偉大な人柄、業績を偲び、愛し、活躍しております。
【参考文献】

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