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 中部フォーム印刷工業会主催
  平成21年度 講演会 (平成21年11月19日開催)
「ビジネスチャンスをどう見つけるか」
 
       株式会社ナビット 代表取締役 福井 泰代 様
そういうふうにしながら、先ほどの「のりかえ便利マップ」が商品化されました。最初に採用していただいたのが、学生援護会という会社です。74社に売り込んだのですが、3社が話を聞いてくれるというなかで、最後、学生援護会さんくらいしか話が残っていなかったのです。その当時、東京の地下鉄は256 駅ありまして、256 駅を調べるのに5カ月かかっています。それがすごく大変だったので、とにかく採用してもらわないと割が合わないと、あのころはすごく必死でした。  
学生援護会さんで『DODA(デューダ)』という雑誌をつくっているアルバイト雑誌の会社が採用してくれたのですが、そのときに向こうの編集長さんに、「いくらほしいの?」と言われて、「お金はいらないので商品を世に出してください」とお願いしたのを覚えています。  
アルバイト雑誌なので、今週は千代田線の仕事、来週は半蔵門線の仕事、というふうに仕事の特集があるのですが、学生さんがアルバイトの面接にいくときに、よくわからないので「のりかえ便利マップ」を採用していただきました。  
そのとき「お金はいらない」と言ったのですが、「そうはいかないから」「本当にお金はいいです」といったら、「じゃ、20万円でいい?」と言われて、「20万円でいいです」と言って、最初に採用されました。  
これが私の2つ目の発明です。そのときの学生援護会の編集長さんが言ってくれた重要な言葉は「福井さん、これ、あなたが考えたのは、発明ではないよ。これは情報だよ。だから、ふくらませて、切り口を替えて展開しなさい。私たち、マスコミがやっている仕事はこれと同じ。一つの情報を回転させて、ふくらませて、切り口を替えて出す。福井さんがやっているのは、発明ではない。情報だから、もっとふくらませて、切り口を替えて世の中に出してみなさい」というアドバイスをいただきました。  
そのときまで私は、このアイデアを本にするという発想しかなかったのですが、別に本でなくていいのだ、ということに初めて気がつきました。それで、手帳とか、インターネット、パソコン媒体、広告物にしていったりできるんだと思って、違うことを始めました。  
学生援護会さんには、企画書を出していたのですが、だんだん面倒臭くなって、「ぴあ」さんという会社に売り込みに行きました。このとき担当の女の人に言われたのが、「いろいろたくさん情報が盛り込まれていますが、福井さんの情報の中で必要なのは、この乗り換えの車両のところだけ、あとはいりません」と言われたのです。  
最初は、Aの1がどこにある、Bの1がどこにあると、出口も全部書いて出したのですが、「必要なのは、車両番号だけ。だけど、リクルートの『じゃらん』さんも同じようなものを出していますよ」と。  
そのとき、リクルートの『じゃらん』の「お花見マップ」というのが出ていて、それに同じような情報が確かに載っていたのです。でも、それがすごく見にくかったので、「じゃ、これより見やすいものを考えてきたら、もう一度会っていただけますか」といったら、「会ってくれる」というので宿題をいただきました。  
それで考えたのが、右側に車両数を入れて、左側に駅が載っている方眼紙みたいなものを「ぴあ」さんからの宿題としてお持ちしました。  
それで「ぴあ」さんが、『ぴあマップ』という小さい雑誌に掲載し始めてくれました。 次に私がいったのは、日本能率協会さんです。これは、JMAさんという手帳会社さん で、システム手帳というのを出しています。穴があいていて、そこに「のりかえ便利マップ」を採用してくれませんか、と言いました。そのときに日本能率協会さんで採用していただいたのですが、個人とは取り引きができないから会社にしてくれ、と言われて会社にしました。  
私はそのときに、子どもがちょうど4歳と1歳で、子育て真っ最中だったのですが、せっかくのチャンスと思って会社にしました。最初から会社をつくろうと思ってやったわけではないのです。自分のへそくりの300万円と、母親から借りた300万円、600万円で自宅の2階に、有限会社アイデアママという会社を立ち上げました。  
1年やってだめだったら辞めるという約束で家族の協力を得まして始めました。それが今の会社の前身になります。  
それで会社が少しずつ発展し始めまして、社員がどんどん増えていきました。会社がどんどん大きくなっていったときにいろいろなターニングポイントがあったのですが、そのターニングポイントは、「紙からITへ」というところです。 テレビで芳香剤の会社の社長さんへのインタビューがありまして、発明家と起業家の違いというのをお話しされていました。  
「発明家は、きょうコップを考えて、あした鋸を考えて、次の日、扇風機を考えているのが発明家ですが、起業家というのは、一つの木を林にして森にして、森林にしていける人が起業家」という話をされていました。  
私はその話を聞いて、私も、発明家ではなく、起業家になりたいと思いました。それで、うちの会社で木にして林にして森にしていけるものは何だろうと考えたときに、「のりかえ便利マップ」だけではとてもとてもそんなに社員にご飯を食べさせていけないと思いました。  
ちょうどその頃、「インクリメントP」さんという会社がありまして、それは「パイオニア」の子会社で「MapFan」を一時つくっていたのですが、そこの開発部長さんと一緒にウィンドウズCEのソフトをつくりました。そのときに開発部長さんがおっしゃっていたのが「福井さん、これからマンナビの時代が来るよ」「マンナビって何ですか」「カーナビの人版。人を目的地まで案内します。これからはきっとそういう時代が来るよ」というお話をされていたのを聞きました。  
「マンナビ」という言葉を聞いて、「マンナビゲーション」というのは、カッコいい、これだったらいけるかもしれない、とそのとき思いました。それで、ガラクタ発明を一切やめて、「マンナビゲーション」の時代が来たときにどういったものが必要かを考えて、それを準備していこうと、会社の方向を大きく変えました。  
それまでは紙がメインで、駅などで配っている紙媒体をつくっている会社だったのですが、それを一切やめました。しかし、そのときはなかなかご飯が食べられなくて大変だったのですが、1年くらいたったときにケータイが出てきました。ケータイモバイルで、「マンナビゲーション」を展開しますというので打ったところ、非常に響いていろいろな会社さんから問い合わせが殺到しました。一番最初はケータイだけだったものを、「JRトラベルナビゲーター」というのにうちのコンテンツができるのではないか、というとで「マンナビゲーション」をモバイルで展開する会社ということにシフトしていきました。  
そうしたら、すごく発展して、いろいろなところから問い合わせが来て、それで資本金を一気に1億4,000万円まで増やして株式会社にしました。それでうちはIT業界に鞍替えしたわけです。  
そのときにあのシフトを決断しなければ、今の私どもはたぶん紙媒体をつくっていたと思います。  しかし、そのころ「のりかえ便利マップ」にいろいろな訴えがありました。ちょうど私が全国の駅の調査を行っていたとき、あるクレーマーとの出会いがありました。手帳会社さんに「のりかえ便利マップ」を出していただいていましたが、地下鉄銀座線の電車の上にパンタグラフのデザインをつけて出したのです。そうしたら「地下鉄銀座線にパンタグラフはついていない」と怒鳴り込んできた人がいました。  
私どもでも「地下鉄銀座線や丸の内線ので電車にはパンタグラフがついていないのはわかっているけれども、デザインとしてかわいいから出しているんです」と言っても、全然帰ってくれないんです。いつまでたっても帰らないので、すごくいやな感じだったので、その人たちを敵に回すのはいやだなと思って聞いたら、早稲田の鉄道研究会の学生さんだというのです。「そんなに気になるのだったら、じゃ、あなた、ちょっとやってみませんか」と言ったら、「やる」と言ったのです。そのときちょうど横浜市営地下鉄50周年の記念冊子をつくっていたので、横浜市営地下鉄の調査を早稲田大学の鉄道研究会の学生さんにお願いしました。  
普通だったら2週間かけてやるものを、2カ月くらいかけて鉄道研究会の学生さんを総動員して、横浜市営地下鉄の完璧なものを仕上げてきてくれました。  
それをみて、鉄道研究会の学生さんのネットワークを使えばいいんだということに気がついて、それから全国の鉄道研究会のネットワークを広げていきました。  
全国の大学に電話をして「そちらに鉄道研究会がありますか」と聞いて「ある」と言ったら、会社内容を送って「アルバイトしませんか」というのをつけて、「興味があったら電話ください」ということで全国に送ったのです。  
そうしたら、いろいろなところから返事が来て、全国にご説明にいきました。そのなかで愛知県の名古屋大学の鉄道研究会の学生さんにもお願いしているのです。たこ部屋みたいなところで「何かあったときに駅の調査をお願いします」会社の説明をして、4年生が卒業したら1年生に受け継いでもらって全国のネットワークをつくりました。北海道から九州まで鉄道研究会のネットワークを広げて、私たちが調査をしなくても全国の調査員が調査をしてくれるような体制を起こして、少しずつ広げてきました。 
これが今のうちの地域特派員の前身になっています。  
その頃は、ちょうどITバブルの頃でして、渋谷のビットバレー、青山のウーマンバレーということで、発明家の人たちが騒いでいるところをよくテレビでやっていましたが、あの時代です。  
テレビ東京さんのほうで、「われらの時代」という年末にやる特集で、3年くらい連続でベンチャー企業を紹介した番組がありました。このディレクターさんが「青山ウーマンバレーということで取材させてくれ」とうちに来たのですが、そのとき会社は世田谷にあり、青山でないのでお断りしました。そのときにおっしゃっていたのが「青山のウーマンバレーを取材したけれども、何の実態もない。どこも儲かっている会社はないんですよ」と。しかし 私たちは、その頃すごく忙しかったのです。  
私たちは、あれは絶対おかしい。どこかの会社の子会社だったらまだしも、あんなふうに青山の一等地をいきなり借りて、ベンチャー企業の方がいきなり費用をかけてやるのはおかしいよね、話していたのですが、案の定、いつの間にかなくなっています。  
私が最初に会社を立ち上げたときの目標は何かというと、最初はまったくお茶も出てこなかったので、お茶が出てくることでした。次の目標はコピーを買うことでした。お金がなかったので、ファミリーマートでいつもコピーを取りにいっていたのですが、「雨が降ると濡れてしまうのでコピーを買ってください」といわれて、「じゃ、儲かったらね」と言って、ファミリーコピーみたいのを買ったんです。  
そのあと、次の目標が電子レンジをほしいという人がいました。どうしてかというと、みんなお弁当を持ってきていたので、冬になるとお弁当が冷たいから電子レンジで温めたいという人がいて、それもまた「儲かったら電子レンジを買おうね」と言って、電子レンジを買いました。そうやって少しずつレベルアップしました。 オフィスも自宅の次にいったところは、すごく広いのですが、ぼろいところで、1階が葬儀屋さんで、2 階が宗教団体で朝からお経が聞こえていて、昔の松田優作の『探偵物語』みたいな雑居ビル、5階なんですがエレベーターがないんです。京王電鉄の人が、打ち合わせに来て「こんなにぼろいわけがない。まさかここではないよね」と言って帰ったことがありました。それでエレベーターのあるビルに移りたい、というのが私たちの次の目標でした。  
それでエレベーターのあるビルに移って、1フロアを2フロアにして、「カラーコピーがあったら、いちいちカラーコピーを人に頼まなくていいからカラーコピーを買ってください」というのがあって、カラーコピーがやっと買えるようになって、そういうのをずっとやりながら、そのうち23区に移りたいということになって23区に移りました。  
それから山の手線の内回りに移りたいというのがあって、4、5年前にやっと千代田区に移ってきたんです。一昨年くらいの目標が新卒をとりたいというのがあって、新卒を今度初めてとって、会社説明会をして新卒をとりたいというのが次の目標なんですが、そういう感じで少しずつステップアップしました。  
何が言いたいかというと、あまり目標を高くいきなりするのではなく、自分が 130%くらいの力で少しずつクリアできるような目標を立てて、それを実践していくというのをずっとやってきました。  
そんなことをしながら、社員も少しずつ増えて、次にITから情報産業のほうに移っていきます。

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