第7話 石版印刷の発明が導いたオフセット印刷

石版印刷の発明が導いたオフセット印刷


18世紀の末期になって、ボヘミアのアロイス・ゼネフェルダーという人が石版印刷を完成させました。別名「リトグラフ」のことです。当初は、インキを練るための台として使っていた石灰石を、凸版印刷に利用できないかという発想から始まったのですが、試行錯誤の末、水と油の反発を利用して平版印刷をおこなうことに成功したのです。木版は凸版、銅版は凹版なのですが、この石灰石は表面が平らな平版だというところが、画期的な発明とされる所以です。

少し科学的になりますが、脂肪性(油性)の薬剤で絵柄を描き、その上に硝酸溶液を塗ると、石灰石の炭酸カルシウムと反応して脂肪酸カルシウムができます。この脂肪酸カルシウムが水をはじく性質をもっていて、親油性のインキが乗りやすくなるわけです。その他の絵柄のない部分は、保水性に富んだ酸化カルシウムとなって、水を受け付けます。石灰石の表面を水に濡らしてから印刷インキを載せると、絵柄の部分だけにインキが付いて紙に転写できる状態になるというわけです。

石版の場合は、木版や銅版のように彫る作業が不要で、文字や絵柄を自由に描きさえすれば、印刷が可能になるというメリットがありましたが、欠点は何といっても石灰石が重く、しかも高価で入手しにくいということでした。一つの石灰石を印刷後に平らに研ぎ直すという作業を繰り返し、本当に薄くなってしまった石版も少なくありません。当初は、薬品処理に頼る不安定さも確かにあったのですが、絵画が盛んだったフランスを中心に、このリトグラフは発展していきました。

19世紀の中頃にシリンダー式の印刷機が製造されたのに伴い、版の材質も石版から亜鉛版、アルミニウム版へと変化し、印刷の方式も現在、一般的に使われているオフセット印刷へと進化していきました。ちなみにオフセットと称される理由は、水が直に紙に付かないよう、いったんインキをゴムの胴に転写してから紙に印刷するという、間接的な方法が採用されているからです。

表面の粗い紙や特殊な素材に印刷する場合など、凸版や凹版においても、ゴム胴を挟んだオフセット印刷はおこなわれているのですが、石版から始まった平版印刷の分野で本格化し、優れた印刷方法として発達していったことを忘れてはなりません。

絵画かリトグラフかといわれるくらい、忠実に絵柄を多色印刷できる最適な技法として、その後も芸術分野では一貫して高い評価を得続けました。明治から大正にかけて、数多くの美人画ポスターが制作されましたが、これらは江戸時代の錦絵から大きな影響を受けると同時に、石版印刷の技法を存分に駆使して成し遂げた結実だということができます。

 

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印刷の歴史のコンテンツ一覧
前史
紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
第1話
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
第2話
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
9.明治期の印刷技術   明治時代の印刷方式はどうだったのでしょうか?

明治初めには木版法の他に、銅凹版法、石版法などがありました。

第3話
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
第4話
グーテンベルクが発明した活版印刷術
第5話
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
第6話
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
第7話
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
第8話
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
第9話
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
第10話
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
“明治150年”記念展示 「日本の印刷の歴史」 ―江戸から明治期における日本の印刷技術―

2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。

1.「百万塔陀羅尼経」現存する世界最古の印刷物!

日本の奈良時代(8世紀中葉)につくられた「百万塔陀羅尼経」は、開版年代が判明していて、しかも現存する印刷物としては世界最古のものです。

2.江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷

 元禄期(17世紀末~18世紀冒頭)、文化・文政期(18世紀末~19世紀冒頭)に象徴される江戸の文化を根底から支えたのが、木版印刷による出版物でした。

3.錦絵は色彩豊かなカラー刷りの美術作品

この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。

4.日本における近代印刷の始まり

種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。

5.その250年後の幕末、日本における近代印刷がスタートを切った

江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。

7.築地活版製造所、谷口印刷所などが続々と誕生

その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。

6.日本の近代印刷術の祖 本木昌造

オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。

8.明治時代の初頭には新聞、雑誌、書物が続々と発刊、日本の近代化と文明開化の流れを、印刷が一段と促した!

このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。

10.日本の印刷機械産業の源泉  明治時代に始まった!

本木昌造門下の平野冨二(現株式会社IHI創立者)は、東京に平野活版所を設け活字類の鋳造、印刷機械類の製作販売を開始しました。

11.明治の後期、成長へのスタートが切られた!

 明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。